【3章ー3】東大コンプレックス

【3章ー3】東大コンプレックス

【これまでの連載のまとめ】
【3章ー1】入学、サークル、そしてバイト
【3章ー2】ボイトレ、つんく♂さん、友達、そして恋

 東京都内のライブハウスで出逢ったミュージシャンの人達。学生バンドもいれば、音楽活動に専念している人達。アマチュアも、インディーズも、プロデビューをしていた人達もいた。共通しているのは、とにかく音楽が好きだということだ。そんな人達に囲まれて過ごす中で、僕の中にある重圧が生まれつつあった。

 それは「東大コンプレックス」だ。

 僕は音楽の専門学校に行ったわけでもなく高校のバンドあがりで、真剣にミュージシャンとしての成功を模索してはいたが、他の人より音楽を追求してきた人生を送っているとは思えなかった。そもそも、大学に行っているだけで、どうせ卒業したら就職するんでしょ?みたいな空気があるような気がした。直接何かを言われることはなかったから、僕の妄想でしかなかったのだが。

 ライブの打ち上げで「普段何してるの?」という話になったとき、正直に東大の学生だとは言えなくなっていた。はじめのうちは正直に話していたのだが、「東大。全然違うね。何でバンドやってるの?」と、相手にはもちろん悪気のない普通の質問が、胸に刺さったからだ。そのときは普通の大学生ですとごまかしても、ツイッターで相互フォローしたときにバレてしまう。隠したければ別アカウントを作ればよかったのかもしれないが、そこまでする理由も見つけられなかった。

 東大生だというのを全面に出すというやり方もあったが、なんせ東大では落ちこぼれ、東大の中に僕の価値があるわけでもない。それに対して東大という響きが持つ絶対的な社会的価値。取り柄もない僕にとって、東大生だということが重荷でしかなくなっていた。

 東京で過ごす冬が終わりを迎えようとしていたころ、あの東日本大震災が起きた。その日は大田君の誘いで、バンド練習をしていた。東大のバンドサークルは洋楽のカバーが多く、GLAYやLUNA SEAといった日本のアーティストのカバーがしたいとき、太田君はボーカルとして僕を指名してくれるようになっていたのだ。

 下北沢のスタジオが突然めちゃくちゃ揺れた。とっさにスタジオの重たい二重扉を開ける。揺れはおさまったが、地方出身者の集まりでどうしたらいいかわからなかった僕たちは、一度学校に行こうと、駒場東大前まで歩いた。が、学校にいても特にやることはない。一番近かった僕の家にみんなを泊めることにしたが、なんせ木造築七十年のアパートの一階だ。潰れてるんじゃないかと本気で心配していたが、家についてみると、冷蔵庫の上に置いていたファブリーズが床に転がっていたくらいだった。

 それから二日間くらい東京で過ごしたが、バイトも休み、ライブも当然中止になり、混乱が続く中で電気、水道を消費するのもどうかなと思い、実家に帰ることにした。彼女はというと、三月のあたまにかねてから決めていた海外留学に出発してしまっていたから、多治見に帰ったところで何もやることはなかったのだが。実際、地元に帰ってみると、大混乱していた東京とは全然違って、スーパーの棚が少し寂しいかなというくらいで、他はいつも通り。テレビに映し出される光景、東京で体感した空気との温度差を改めて感じた。一年に一度は宮城にボランティアに行こうと決め、新学期までの一ヶ月を実家で過ごした。

 東大は一、二年次は文系、理系に分かれ幅広く教養を学び、三年から各自専門分野に進むというシステムになっており、二年の夏迄にどの学科に進学するか、本人の希望を踏まえ成績順に決定されるようになっている。

 僕はというと、高校のときから文転を希望していた。歴史は好きだが、ミュージシャンには必要なく、あくまで趣味だからと史学科には進まず、歌詞を書く上で文章に深みを持たせることができるようになるため、東大の中でも伝統のある「文学部言語文化学科日本語日本文学専攻」に進むことにした。

 後期からは専門授業が始まる。太田君に、文学部に進むことを報告すると「俺もやで」と言い出した。よくよく聞いてみると、同じ専攻だった。将来のことを語り合っていた谷君は、哲学に詳しくて、普段から会話に哲学の言葉を入れてくるくらいだったから、一緒に文学部に行こうと誘っていた 。

「吉田さん、それは、人生の負けが加速します」

 お好み焼きをほおばりながら、谷君はそう言った。谷君が言うには、理系で落ちこぼれている僕らはすでに負けていて、そんな僕らが理系ではなく文学部に進むのは、その負けを加速させることだと。だから、僕は絶対に行かない。僕が何を言っても頑として考えを変えなかった谷君は、農学部へと進学した。なぜやりたいことをやらないのか。高校のときから変わらない、僕のポリシーと、谷君のポリシーが歩み寄ることはなかった。

 上京して一年以上が経っていたが、僕はいまだにバンドメンバーをネットで募集していた。いろんな人に会い、バンドにも参加したが、なかなかしっくりくるメンバーが見つけられずにいた。

 八月。あっきーとバンドを再結成することに決めた。あっきーは名古屋大学に進学していて、成人式で再会したときにギターを続けていると聞いていたから、思い切って誘ってみたのだ。基本的には遠距離なので、Skypeで音源をやり取りしながら曲作りをした。

 夏休みを利用して、僕の家で合宿をした。一週間ストイックに音楽のことだけを考え音楽だけをやる日々。人が多いと、気持ちにしろ行動にしろ振り回されてしまうことが多く、それはもう嫌だと、あっきーと二人で活動することにしたので、ドラムやベースの音はパソコンで打ちこんだ。二人のデビューライブは、神楽坂EXPLOSIONという老舗のライブハウスだった。あっきーもテンションが上がっていて、東西線の電車の長さに感動したりしていた。

 ユニット名はリアル(Re:@L)だ。Reとは反復、歴史は繰り返す。Rは右、Lは左だが、つづりは位置が逆、これも左右が逆という、社会へのアンチテーゼを表したものだ。歌う歌もどちらかというと社会的なメッセージソングが多かった。

 実は海外留学していた彼女とはすでに別れていた。結婚も考えていた彼女との別れはかなりショックで、恋愛の歌詞を書くことができなくなってしまったのだ。日本語日本文学を専攻したのも、歌詞に深みを持たせるためではあるが、歌詞をかけなくなっていたことの危機感の現れでもあった。そんなわけで、作る曲が社会的なメセージを問いかけるものが多くなっていたのだ。

 大学の授業がある期間は遠距離での曲制作、長期休みにライブを行うようになった。売れているミュージシャンだって、制作期間とツアー期間を分けている。僕らも同じだと思うと、むしろ誇らしかった。東京と名古屋でライブをすれば、それはツアーといっても過言ではない。僕たちは、ツアーをするほどのミュージシャンなのだ。かっこいいじゃないか。

 
 年が明けた二月。このとき、僕は人生で一番勉強したと思う。なぜなら、進路が決まっているのに単位がかなり足りなかったのだ。それまで、追試での単位取得に頼りすぎていたのがいけなかった。基本的に追試は本試験とほぼ同じ問題が出題されるから、その勉強だけすればよかったのだが、そのときの電磁気のテストは同じ問題は出ないことが判明したのだ。一から勉強しなければいけない上に、対になっている力学の成績が悪かったため、それをカバーするだけの点数を取らなければ単位にならない。

 毎日十五時間くらい勉強し、なんとか無事単位は取れた。クラスの底辺だった谷君も無事進級。毎年、留年する人はクラスで二、三人はいて、クラスメイトはそれが僕と谷君だと思い込んでいたのだが、蓋を開けてみると僕らではなく、別の人達が留年したから、少なからず驚いたらしい。

 晴れて東京大学三年生となった僕は、髪を赤く染めた。そしたら、2chで叩かれた。

 再び夏がやってきた。あっきーと恒例となった長期合宿をして、東京でライブをした。ツイッターや友達の紹介などで、かなり多くのお客さんが集まり、僕らのライブは大成功。満足いくものとなった。この頃にはあんなに悩まされていた東大コンプレックスも克服しつつあった。というか、自分の音楽に自信がなかったからコンプレックスを感じてしまっていただけだったらしく、あっきーと活動をしていく中でそれも薄まってきたのだ。それに、音楽の専門に行っていたからといってできない人もいる中、自分はできる。全然関係なかったのだ。

 活動は順調に思えたが、三年の夏ともなると、将来のことを真剣に考えるようになる。高校受験のときと同じように、まわりは就職活動に向けて、セミナーだインターンだと騒がしくなるからだ。僕はミュージシャンになる。その思いはぶれていなかった。けれども、音楽活動はまだ何も形になっていない。このまま卒業したらフリーターになる。

 それならば、一年休学して音楽活動に専念しよう。そう思い立った。ライブハウスで一緒になるミュージシャンは、大体がバイトをしながら音楽活動をしていた。働きながら音楽をやるということ、フリーターの大変さも味わってみたかった。何より、東大コンプレックスは解消したものの、自分が東大生であることを上手く生かす方法も見つかっていなかったし、東大と音楽を結びつける理由も見つけられずにいたから、休学することで大学の良さが分かるかもしれない。そんな期待もあった。

 突然休学したいと言い出した息子を、両親は意外なほど冷静に受け入れてくれた。東大受験すると言い出したとき、予備校を辞めると言い出したとき、そして文転すると言い出したとき。毎回毎回、親は「なんで?」と呆れていた。けれど、理系の勉強に苦戦していた僕を見ていたこともあって、親としてはちゃんと単位を取って進んでいくことが大切だと思ったらしい。

「休学してもいいけど、仕送りは0」

 それが条件だった。生活費、家賃、全部自分でやるなら、もう何も言わない。僕もそのつもりだったから、交渉成立。来年三月をもって、東京大学を休学することとなった。

 十二月、名古屋でのライブをもって、リアルは解散した。あっきーが大学院に進学するからという理由もあったが、やはり遠距離で活動していくことの限界を二人とも感じていた、というのが大きかった。このまま続けても、すぐに音楽で食べていけるわけじゃない。辞めよう、と。

 寂しかったし、また一人になることに正直不安もあった。けど、東京には僕を応援してサポートしてくれる人達もたくさんいる。何より、あっきーと活動していく中で取り戻した自信、自分のやりたい音楽、それらがあれば大丈夫だと思った。あっきーには感謝しかなかった。

 精一杯、やりたいことをやっていくしかないのだ。そう決めたのだから。

続く(この連載は毎週月・木曜に更新します。)

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《出版社募集!》
本連載は「なんでサムライなの?バンドやってたって本当?は!?歴史?っていうか東大?株式会社??わけわかんない・・・・」という疑問にお答えするべく、紫式部さんにインタビュー・執筆して頂きました。

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矢文(メール)はryo@dothesamurai.comまでご連絡下さいませ。
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RYO!

プロフィール
株式会社DO THE SAMURAI 総大将(代表取締役) / プロのサムライ
東京大学文学部。
在学中より「サムライを切り口に、日本の文化や歴史に’楽しく’触れるきっかけをつくる」という志のもと、毎週、世田谷松陰神社の歴史資料館で塾を開講、史跡ツアー・歴史イベントを主催。
そして、2016年4月に法人化。仲間とともに新たなスタートを切る。
株式会社DO THE SAMURAIでは、
「’日本から世界へ”国内の地域から地域へ、
日本人一人ひとりが文化や歴史を発信できる’外交官’に」というビジョンのもと、
地域の歴史ブランディングなど新たな事業に取り組んでいる。
講演依頼、問い合わせなどはryo@dothesamurai.comまで。
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株式会社DO THE SAMURAI:http://dothesamurai.com
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